Column

「スマホがあるのに、なぜ撮れないのか」——生前メッセージ映像を自分で録らない本当の理由

コラム

スマートフォンのカメラは、もう十分すぎるほど高性能です。

4K動画が撮れる。手ぶれ補正もある。暗い部屋でもきれいに映る。画質だけで言えば、プロの機材と見分けがつかない映像をポケットの中の端末で撮れる時代になりました。

だから、こう思うのは自然なことです。

「生前メッセージの動画なんて、スマホで自分で撮ればいいのでは?」

実際、その通りかもしれません。技術的には、何の問題もなく撮れます。

——でも、撮れた方を、私たちはほとんど知りません。

スマホはあっても、「録る」ボタンは押せない

終活に関心を持ち、家族へのメッセージを映像で遺そうと考える方は、年々増えています。エンディングノートを書き始めた方、遺言書を準備した方。「次は動画も」と頭では思っている。スマホも手元にある。

けれど、いざ自分にカメラを向けて、録画ボタンを押して、家族に向かって話し始める——ここで、ほぼ全員が止まります。

何を話せばいいのか、わからない。
話し始めても、まとまらない。
照れくさくて、途中でやめてしまう。
「もう少し整理してからにしよう」と思って、そのまま忘れる。

この「いつか撮ろう」は、残念ながら、ほとんどの場合「結局撮らなかった」になります。

これは意志の弱さではありません。人が自分自身について、しかも大切な人への最後の言葉を、一人きりで、カメラに向かって語るという行為は、想像よりもずっと難しいことなのです。日記を書くのとは、まったく別の心理的なハードルがあります。

あるご遺族の言葉

生前メッセージの映像を残されたご家族に、後日お話を伺う機会がありました。

「自分たちではなかなか撮ろうとはならなかった」

ご家族はこうおっしゃいました。映像を残すことの大切さは理解していた。スマホもあった。でも、家族の間で「お父さん、メッセージ録ろうよ」とはならなかったそうです。

なぜか。それは「まだ元気だから」であり、「言い出しにくいから」であり、何より「きっかけがないから」です。

別のご遺族はこう話されました。

「覚えているつもりでも声って忘れてしまう。聞いたら思い出すけど」

写真は見れば顔を思い出せる。でも声は、再生する手段がなければ記憶の中で少しずつ輪郭を失っていく。声の記憶は、思っているよりもずっと脆いものです。

そして、こんな言葉もありました。

「元気なときにも撮影できていたらよかった」

生前の動画が残っていることへの感謝とともに、「もっと早く、もっと元気なときに」という思いが滲んでいました。最期の数ヶ月は写真や動画もほとんど残っていなかったそうです。病気が進むと、カメラを向けること自体がためらわれるようになる。元気な姿を映像に残せる時間は、思っているよりも限られています。

「撮れる仕組み」があるから、撮れる

ここで少し考えてみたいのは、プロの映像制作が何を提供しているのか、ということです。

高画質な映像? いいえ、それはスマホでも十分です。

プロが提供しているのは、端的に言えば「撮れる仕組み」です。

日程を決めて、場所を用意して、プロが来る。この「予約した以上、やらなければならない」という外部からの構造が、「いつか撮ろう」を「今日、撮る」に変えます。歯医者の予約と同じで、予約がなければ人は動けない。映像も同じです。

そしてもう一つ、プロが介在することで変わるのは「引き出す力」です。

一人でカメラに向かって語ることと、目の前に「聴いてくれる人」がいて、問いかけに答える形で語ることは、まったく別の体験です。インタビュー形式で話を聞いていくと、ご本人が事前に「こんなことを話そう」と準備していた内容とは違う言葉が出てくることが少なくありません。

「あのとき、本当はこう思っていた」
「子どもたちには言ったことがなかったけれど——」

聞き手がいるからこそ、自分でも気づかなかった本音が言葉になる。カメラの前で一人では絶対に出てこない言葉が、対話の中で自然と生まれます。

生素材と「作品」の違い

仮に、ご自身でスマホで30分間話したとします。

その映像を、ご家族は繰り返し観るでしょうか。

正直に言えば、生素材の30分間をもう一度最初から再生するのは、かなりハードルが高い行為です。言い淀み、長い沈黙、話題の行ったり来たり。大切な内容であっても、映像として「観やすい」状態にはなっていません。

プロの編集は、その30分を「繰り返し観たくなる作品」に変えます。構成を整理し、最も心に響く言葉を核にして、BGMとテロップで映像に呼吸を与える。5分の映像に凝縮されたメッセージは、何年たっても、ふとした夜に再生したくなるものになります。

家族が10年後、20年後に観る映像だからこそ、「観返しやすさ」は想像以上に重要です。棚の奥にしまわれたまま再生されない映像は、存在しないのと変わらない。繰り返し観てもらえる映像にすること——それが編集の本質的な役割です。

元気なうちの声と表情は、今日しか録れない

最後にお伝えしたいのは、タイミングの話です。

生前メッセージの映像は、病気になってから慌てて撮るものではありません。もちろん、そうせざるを得ない場合もあります。でも、ご遺族が「もっと早く撮っていれば」とおっしゃる気持ちの中には、こういう意味が含まれています。

元気なときの声と表情こそ、家族が一番聞きたい、一番観たいものだ、ということです。

病床で絞り出す「ありがとう」ではなく、笑顔で、少し照れながら、でもしっかりと語る「ありがとう」。その声のトーン、その表情の温かさは、今日という日にしか録れません。明日になれば、声は少し違う。一年後には、もっと違う。当たり前のことですが、「今の自分」は今日しか存在しません。

終活という言葉には「終わり」の字が入っていますが、生前メッセージ映像は「終わりの準備」ではなく、今の自分を、大切な人に贈る行為です。

「声と表情は、手紙にならない。」

だからこそ、映像で遺す。そしてそれは、スマホがあるかどうかの問題ではなく、「撮れる状況をつくれるかどうか」の問題なのだと思います。


結い言(ゆいごん)は、鹿児島市を拠点に九州全域で生前メッセージ映像の制作を行っています。テレビ局出身のカメラマンがインタビュー形式で丁寧にお話を伺い、ご家族が何度も観返したくなる映像作品に仕上げます。詳しくは yuigon-syukatsu.com をご覧ください。

Yuigon

結い言は、ご本人の声と言葉で大切な人へメッセージを遺す映像サービスです。まずはお気軽にご相談ください。